森夕香、新里明士、小左誠一郎、田幡浩一
モダンな感覚
Upcoming
京橋
2026年8月1日(土) - 10月10日(土)
11:00 - 19:00 日・月・祝日休廊 *夏季休廊 8月9日-17日
あらゆる価値(観)は、ある日突然降って湧くものではなく、何らかの集合体の作用や、歴史の流れに乗ったり逆らったりすることで生まれてきます。そうした動きの連続性のなかで、固有の力強さがモノや事象に宿るということもあるのですが、逆説的ながら想像もしなかったようなことが日々様々な場所で起こる今の世界のなかで、あえてそうした連続性(それはモダンな感覚といってもいいのかもしれませんが)に注目をしたグループ展を京橋スペースにて開催します。
森夕香は、和紙と顔料という長い歴史を持つ日本画の素材を用いて作品を制作しています。例えば、写真がデジタル化していくなかでアナログな制作環境が縮小していくこととは異なり、制作者の数の減少によって良質な日本画の素材は少しずつ入手環境が狭まっていると聞きます。また、日本画にはその歴史の長さや取り扱われてきたテーマの反復性などの特徴ゆえ、ある種の固定概念が与えられることも多いでしょう。しかし、森夕香は植物という「伝統的」なモチーフを扱いながら、人間と自然のあわいを流動的で混合的な世界として描き出します。植物が生きる環境への精緻な観察や自身の身体感覚、日本画の描画には見られないブラシのストロークのような動きや木枠の側面までにも視点を誘導するような手法―そこには静かな抵抗があり、価値の更新があるように感じます。
新里明士の試みは、陶芸の歴史のアヴァンギャルドでありながら、同時にそれを文字通り打ち砕くという自己内省的な過程の連続を通して発展してきました。新里の代名詞とも言える「光器」は洗練された技術と数十時間に及ぶ反復作業を経て生まれる現代磁器の最高峰の一つとして高い評価を得ています。しかし近年では、完成した作品を自らの手で打ち砕き、「光器」に潜在していた要素を明るみに出すことで次の制作へと展開していく行為を繰り返しています。歪みや切れ込みが生み出すより複雑な陰影、色を纏うことで物質感を増す造形―「光器」の完成から続く探求が閉じられることはありません。また時には、作家が親しみ慣れた土や造形方法を離れて、全く異なる様相の作品を制作することも鑑賞者に新鮮な驚きをもたらします。その作品の大きさを越え出て、光を操作し空間へと波及していくセラミックの姿をどうぞご覧ください。
小左誠一郎 絵画が言葉を精錬し、そして言葉が絵画を押し拡げるーそんな印象を覚えるのは、小左誠一郎が俳人でもあるからだけではないでしょう。この抽象画を前にして、何を感じるでしょうか? 色の組み合わせと配列の大小がもたらすリズム感、色の奥にある色のそのまた奥の色の存在、微かな絵の具の滲みや刷毛の痕跡、そして、絵の具のひび割れ。何かが限界まで行って、また戻ってきて、画面の上を散歩し続けているような感覚を覚えます。しかし一体何が?
「風景を脳内に生け捕りにする」という作家の言葉からは、抽象画のなかにもある種の具体性が潜んでいることが確認できそうです。上述の通り、一定のリズムがありながら、いくつかの要素が生々しさとともに逸脱していく様を眺めていると、様々な言葉が絵画に吸収され、また異なる形で戻ってくる、そのような往還が生まれてくるようです。絵画にはうんと長い歴史があるーその永劫性への憧憬に、潔さにも近いものを小左作品に感じます。
田幡浩一は、二枚のパネルをずらした状態で絵を描き、そのズレを解消すべく矩形にすることで新たなズレが生まれ絵画が完成するという独自性の強い作品を制作しています。田幡は、絵画の他にも映像作品やコラージュ作品なども手がけていますが、そこに一貫するのは、”動き” への眼差しです。絵画が担ってきたある種の役割は写真にとって代わられ、やがて動画へと変遷を遂げたことは、視覚文化史の定説であり、今や社会常識となっています。しかしながら、絵画には役割以上の美学があり、それは長い歴史とともにその時々の社会情勢や感性とともに紡がれ、今も世界各地で闊達な議論が展開されています。田幡浩一の絵画のなかにある時間と空間は、ズレによってこそ生まれる「絵画の空間」を生み出しており、私たちはその「絵画の空間」を楽しむことが許され享受できる、歴史のいきつく場所のひとつが確かにそこにあるようです。